シネ・ウインド30年目記念インタビュー 第7弾 シネ・ウインド座付き詩人
「どこにも無い場所」連載中 鈴木良一
※このインタビューは、月刊ウインド2015年6月号に掲載されたものです。
どうして詩人になったのか
鈴木◆戦後民主主義教育を受けてきた人間が、ある日突然、思想・信条の自由はこの国にはないんだと知ったところから始まるわけですよ。うちの父親は当時の国鉄に勤めていたんだけど、戦後、労組の書記長かなんかになってて、反合理化闘争かなんかで首になったんだ。で、姉が高校を卒業して、優秀だったからどこの銀行でも就職が大丈夫のはずだったんだけど、最終チェックになったら、父親に問題があるということで撥ねられたらしいんだ。それを見てて、あぁ、そうなんだ…って。姉個人の職業の自由に、父親の思想・信条は関係ないはずなのに、それを理由に採用されない。そういう状態を見て、あぁ、なるほどなぁ、と思い、社会変革の意識に目覚めまして(笑)。中学3年くらいだったかなぁ。
――昭和30年代初めですよね。「三丁目の夕日」のあたりかな。
鈴木◆あれよりちょっと前。東京タワーより前だったから。
――それがどこで詩につながるの?
鈴木◆自分以外の理由で社会からシャットアウトされるんだったら、自分でシャットアウトされないように生きるよりしょうがないな、と。自分が何をしたら生きていけるのか、っていう、いわゆる青春期の悩みですよ。それを、家庭の事情でちょっと早くやった。
それまで本を読まなかった人で、今もコンプレックスのひとつは児童文学を読まなかったこと。姉は読書好きだったんだけど。
――子どもの頃は何をしてたんですか?
鈴木◆町内で友達と喧嘩しながら遊んでたね。ビー玉とかパッチとか。それが、ちょうどその中3の頃、おふくろが新潮社の緑色の世界文学全集を買い始めたんだ。パール・バック『大地』とか、ヘッセ『「車輪の下』とか。ヘッセに一番惹かれたのかなぁ。
――それでドイツ?(鈴木さんはドイツ文学科卒)
鈴木◆高校行ってから、たまたま春に、姉が中原中也を読んでたんだ。それを自分も読んで、あぁ、これが私の生きる道だ、と。「サーカス」なんて、安倍さんに読んでほしいね。
(編注※「サーカス」…「幾時代かがありまして 茶色い戦争ありました」と始まる中原中也の詩)
同期に芝居好き映画好きの渡辺っていうのがいてね。中学の時に読んだいくつかの本の題名を言うと、輪をかけていろんなことを言ってくるわけ。こいつは何なんだ!?みたいな。そうするとやっぱり対抗するために読まなきゃいけないじゃない。図書館にこもって(笑)。その時に彼が教えてくれたんだけど、ちょうど岩波からギリシャ悲劇全集が3冊出て、それを買って一生懸命読んだりね。あんなに高い本を、よく買ったなと思うよ。その後はカフカ、カミュ、実存主義、不条理と…。
子どもの頃は「赤胴鈴之助」とか、学校で連れていく「砂漠は生きている」とか見てた。「ファンタジア」も見たな。大人の映画を初めて見たのは中学3年の夏。不良仲間3人で、古町のグランド劇場へ。「噂の二人」っていう映画を見た。オードリーも内容も全然知らないで見に行ってるんだよね。たぶん2本立てのもうひとつ、「リバティ・バランスを射った男」だったかのほうが目当てで、西部劇を見に行こうとしたんじゃないかと思う。その後、グランド劇場にも行ったけど、ほとんどライフを中心に見てた。
詩作のはじめ
鈴木◆16歳の時に中也を読んで、真似して書いて…。あ、そうだ、その前の中学の時は短歌少年だった。中1の時に国語の先生が青木先生っていって、短歌をやってる先生だったんだ。それで熱心だったからおもしろいなと思って、短歌を書いて、啄木とか一生懸命読んでた。でも、どっかでね、短歌的旋律の怖さみたいなものを感じてた。ほんっとにね、人間の情感を全部持っていく、さらっていくんだね、短歌的抒情ってのは。ちょっと別の世界に行くなぁ、みたいな。
――中学生で、そういうことを考えてたの?
鈴木◆中学の時と、短歌から詩に移行していく過程で考えたと思うんだけど。
――詩と短歌ってそんなに違うものですか?
鈴木◆いや、市島三千雄も両方書いてるし、詩人仲間が集まって句会をやってる場合もある。ひとつの道を究めた人にはそんなに垣根がないかもしれない。
――寺山修司が頭に浮かびました。
鈴木◆そうだね、寺山は全部やってるからね。それはもうすごい才能だし。
――で、鈴木さんの詩作の話は?
鈴木◆17歳の時、高校の70周年記念誌を出す、ということで作品募集があったんだ。随筆、小説、詩とかね。当時書いた詩を投稿したら2篇載って、それで有頂天。
――学校の図書館に残ってるかもしれないね。
鈴木◆大学に行くとベトナム反戦運動盛んなころで、革命運動やって、社会性を帯びて、目覚めて、日々、勉強と闘いに明け暮れた(笑)。
――そういう時代ですしね。卒業して新潟?
鈴木◆いえ。向こうで印刷会社や出版社に勤めてた。当時の東京はものすごい勢いで(山を)切り崩してしてて、それを見て、これが出来上がって、うちらが30代になって東京で暮らしていくとなったら、(自分の家は)八王子の山の中だな、と。新潟なら実家もあるし、みたいな(笑)。それで10年目に帰ってきた。
――ウインドと知り合うのはもっと後ですね。
鈴木◆それからまた10年後くらい。帰ってからの1年間は就職先がないわけ。帰ってきた時はカッコよく、まだ退職金が残ってたのか、安吾全集を買って、全部読もうとかね。
――安吾はやっぱり意識にあるわけですね。
鈴木◆高校の時に安吾を読み始めてたからね。図書館にもあったし。大学も高校も勉強より本を読んでた気がする。
――最初にシネ・ウインドと関わったのは?
鈴木◆ハコネウツギが咲いている頃だった。
――素晴らしく詩的(笑)。
鈴木◆1985年の6月くらいだったんじゃないかな。当時は詩のほうで県内の人たちと交流して、朗読会とかやってた。で、自分たちが好きにできる劇場、朗読できるところがほしいな、と話してたんだよね。
その頃、シネ・ウインド立ち上げの話が新聞に載った。うちのヤツが読んで、「こんなこと考えてるバカがいるよ。あんたと同じこと考えてる」って。で、齋藤さんに電話したみたい。俺はもうちょっと様子を見て、どれだけバカなのか見極めてから、と思ってた。写植の仕事をしてて時間もなかったし。そしたら齋藤さんが家まで来てくれたんだ。その時、「エロ映画と言われているものは映画か、映画じゃないか」という話をして、齋藤さんは「映画だから映画館ができたら上映する」みたいなことを言うから、そこまで腹くくってるんだったらいいだろう、と家に入ってもらって、いろいろ話をしたのが最初ですね。
――シネ・ウインドオープンの前夜祭で、詩の朗読をしたんだよね。
鈴木◆自分たちがこういう劇場にしたい、ということを、舞台でやった日でしたね。
「紙魚(しみ)」について
――鈴木さんは退職してからも、むしろ前よりも忙しい忙しいって言ってますよね。いったいいくつ会をやってるんですか?
鈴木◆そんなに多くないよ。まちなかの文学を歩く会、安吾の会、市島三千雄を語り継ぐ会、新潟県現代詩人会など。他に「紙魚」「野の草など」「北方文学」の3つに書いてる。
――その「紙魚」の話でこの間、朝日新聞に載ったんですよね(新潟版2/10付)。すごく嬉しそうな顔して写ってた(笑)。
鈴木◆誰も評価してくれなくて、ずっと落ち込んでたから、嬉しかったんだ。
――「紙魚」について教えてもらえますか?
鈴木◆新潟県で発行された詩誌や詩集を集めて、全部年別に目録化したものです。有名な詩人たちは取り上げません。地元で自分でお金を出して、誰からも評価されず、死んでいく人々の苔むした記録、ですね。
1995年から始めて、1925年までさかのぼります。今は1935年を編集中。だから、あと10号くらいですか。
――自分で詩を書くのではなく、他の人のことを調べるというのは、どういう感覚?
鈴木◆市島三千雄を語り継ぐ会で、その頃に何があったんだろうと思って調べても、資料が何もないんですよ。八木末雄さんが書いた『新潟詩壇史』っていうのはあるんだけど。他県に行くとおもしろいのは、出してる詩誌で常に論争があったりして、その情況がわかるような記録が残ってるんです。新潟の場合は探してもそういうのが出てこない。これは、とにかく全部集めて目録化して、詩誌の第何号には誰が何を書いたかを列挙していけば、後から来た人が何を見ればいいかわかるだろうと。新潟の詩の辞書みたいなもんですね。
――新潟は、詩は盛んなほうなのですか?
鈴木◆いや、昭和2年(のもの)で、私が確認できる詩誌が十何冊あるんだけど、今、新潟で出ている詩誌はそれより少ないかもしれない。今はネットがあるから、ネットで詩を書いている人のことは分からないんだけど、本にしたものだったら、どこかで引っかかるはずなんだ。でも、20代は出てこないし、30代もいないんじゃないかな。
100年前から未来を考える
――今後のシネ・ウインドのことで、何かありませんか。
鈴木◆そのへんは詩と同じで、100年前のことを考えると、1914年には第一次世界大戦が始まってるわけですね。その時に人間の意識がものすごく変わったわけですよ。大量殺人兵器が出てきて。表現主義とかも出てくるんだけど。今は同じ時代で、「IS」とか出てきて、訳の分からない殺戮とかしている。これから先の10年は、何が起こるか誰も予想できないと思う。だから、100年のスパンから見ないと定まらないだろうな、というのが今考えていることですね。過去に戻って100年の歴史の認識力をみんな踏まえて、10年先なり、20年先なりを見つめないと。たぶん激変期なんだと思うし。で、その中で一番おもしろいのはNoismなんですよ。
――おぉ~、一気にそこに行った?
鈴木◆100年前といえば、ロシアから亡命するバレエダンサーとか、あの時代だからね。あれで変わっていくわけだから。最初は舞踊から認識が変わっていくんだよ。ニジンスキーもそうだった。映画であったでしょう? 「春の祭典」でものすごく変な動きをして、ブーイング受けてたじゃない。
――大ブーイング受けてるシーンを映画で見ましたね(「シャネル&ストラヴィンスキー」)。
鈴木◆あれを思い出すといいと思う。流麗に踊ってたバレエがいきなり暗黒舞踏みたいな動きに。罵倒する方が正しいんであって、でもまた、それが「今」を映してるって思う人間たちが少数ながらいて。音楽家にしても文筆家にしても、見てないと言ったらバカにされるくらいに。だからNoismも注視してる。
※4月23日、シネ・ウインドにて
テープ起こし・構成 岸じゅん/聞き手・文・構成 市川明美
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■鈴木良一(すずき りょういち)…シネ・ウインド座付き詩人。1947年5月10日、新潟市生まれ。早稲田大学第一文学部卒。
詩誌「野の草など」主宰、詩誌目録「紙魚」編集発行人。日本現代詩人会会員・新潟県現代詩人会会員。「北方文学」同人。
詩集に、『不思議荘のゆりかご、あるいは写植オペレーターの探字記』、『母への履歴』、『あやかしの野師』他。
「新潟・市民映画館建設準備会」からのボランティアスタッフで、開館後は上映企画室(初代室長)や月刊ウインド編集部に在籍。月刊ウインドにずっとコラムを書いていて、現在は「どこにも無い場所」を連載中。
シネ・ウインド20周年に寄せて鈴木さんが詠んだ詩が、「LIFE-mag.vol.007シネ・ウインド特集号」に載っています。
■「紙魚(しみ)」…1995年より始め、今年で20年目、60号まで発行した。年に3回ほど、自費で70部発行し、協力者や図書館などに寄贈している。これまでに取り上げた詩集は450冊、詩誌は140誌以上、とのこと。
※鈴木さんの詩集『あやかしの野師』(2000円+税)は、シネ・ウインドでも販売しています